「その1」の続きです。
なぜ私は「天駆せよ法勝寺」という仏教SFを書いたのか。
まず、仏教の世界観が魅力的だからです。法華経の現代語訳を読むと、想像力の豊かさに圧倒されます。超越的な時間や空間、仏の功徳の描写はSFそのものです。宇宙的と言ってもいい。そう、お経はSFなのです。これは『西遊記』(また『封神演義』)などに代表される中国の小説の想像力に通じるものがあります。また仏教と重なる思想体系を持ち、特に密教に多大な影響を与えたヒンドゥー教の魅力もあるでしょう。ヒンドゥー教では、多彩で強大な力を持つ神々が宇宙的規模で活躍します。これもまたSF的想像力に似ています。
仏教は、人々の苦しみを和らげるという、いわば「現実への処方箋」という実際的側面を持っています。人間の苦しみは数千年前から変わっていません。仏教の考え方は現代の我々にも活かせるものが多々あります。現代の小説のテーマとしてまったく古さはありません。
ただ、仏教の魅力は、柔軟性を失ってしまえばその他の宗教と同様に時として危険でもあります。仏教は比較的寛容な宗教ではありますが、一部では(たとえば女性に対して)排他的な側面もあります。仏教の抱える問題について客観的に考えるのも、仏教SFならではの役割でしょう。
もう一つ、今の仏教が可能性として持っているものを想像の中で思考実験してみたいという考えがあります。たとえば、AI、インターネット、原子力などの技術の発展や価値観の変化に対して仏教がどのような考えをするのか。AIやロボットは悟りを開けるのか。新しい仏が出現したら、どのようなことが起きるのか。仏教的宇宙構造、中有、輪廻の仕組みをSF的に再構築したらどうなるのか、といったことです。
さらに仏教SFには、キリスト教およびポスト・キリスト教的思想に基づく小説(特にSF)に対する挑戦という側面もあります。SFでは英語圏作家の作品が影響力を持っていますが、良くも悪くもキリスト教の影響が強いようです。SFの面白さは、架空の技術だけでなく、架空の文化も扱えるということです。ファンタジーも架空の文化を扱いますが、SFでは文化発展の必然性に科学的知見が反映されていることがあります。私の立場が反キリスト教というわけではありません。しかし、キリスト教以外の視点を提示することは、英語圏の読者にとっては重要でしょう。
『新世紀エヴァンゲリオン』は多くの示唆に富む作品であり、「使徒」、天使、アダム・イブ・リリス、ロンギヌスの槍、死海文書など、キリスト教(あるいはその周辺)的要素を効果的にネタにしています。視聴者である日本人にとってのキリスト教の距離感からすると、このような扱いがちょうどいいのでしょう。ただ、この扱い方にはちょっとモヤモヤしたものを感じます。良くも悪くも「怪しげな効果」を出すための調味料として使われているだけです。もちろんこの作品で、キリスト教的救済などに正面から取り組んだからといって作品としての評価がさらに上がるわけではありません。視聴者はそんなことに関心はありません。キリスト教に限らず、娯楽作品で宗教観をまともに取り上げるのはリスクがあってもメリットはない――そういう見方にも一理あります。ただテレビや映画はともかく、小説という媒体では、仏教的宗教観をより深く、うまく扱えるようにも思うのです。
現在、私は、何人かの方たちと、英語で日本やアジアのSFを紹介するYouTubeチャンネルを立ち上げる準備を進めています。また今年度のWorldCon、CoNZealandにも参加予定です。このような機会を通じて、仏教SFの意義について世界の読者と対話を進められればと思います。
さて、佛パンクとは、狭義には佛理学による世界観で構築された架空世界の物語と定義します。佛理学とは、仏教と科学が融合した架空の学問です。佛パンクは、仏教SFのひとつの形であると言えます。
では、なぜ私は佛パンクを書いたのか。主な理由は、サイバーパンクやスチームパンクなどの固定化され使い古された世界観に飽きたからです。サイバー的インフラや蒸気機関による文明構築が可能であるならば、仏教的世界観による文明構築もまた可能なはずです。特に、仏教の欲望の超克という側面は、文明が今後どのように発展しうるかという問題に対して一つの興味深い回答を示しています。コロナウイルスは、人類が増えすぎたからこそ深刻な問題となりました。
また、仏という超人的存在、成仏という変化の過程、そして宇宙にあまねく存在するとされる仏性もSF的想像力を刺激します。この点は『天駆せよ法勝寺[長編版]』でより深く掘り下げていきます。
「応信せよ尊勝寺」(『天駆せよ法勝寺[長編版]』序章)」単体電子書籍(2022-9-30発売)。