現代アートとSFの接点――想像という行為

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私は、現代アートとSFには通じるところがあると常々考えています。未来を志向したアート作品は数多くあり、その表現方法も様々です。ただ、私は単に「未来的である」というだけでなく、現代アートとSFは、未来や非日常を想像させるという点からこそ通じるものがあると考えます。

議論の前に、ここでのSFは「(架空か否かを問わず)科学的体系に基づくアイデアを物語の主軸にすえたフィクション」と定義します。「架空か否かを問わず」というのはベースとなる科学自体が架空であってもかまわない、ということです。科学的アイデアが主体でない作品は、無理にSFと呼ぶ必要はなく、推想小説(スペキュラティブ・フィクション)という大きな分類に入れればいいと思います。さらにアート作品との対比で言えば、文章で表現された作品であるということになります。

また、ここでの現代アートは「(文章以外で主に構成された)現代に制作されたアート」と定義しておきます。

現代アートとSFには、表現手法として一長一短があります。どちらが優れているかという話ではありません。以下に一例を示します。

概念芸術と呼ばれる種類のアートでは、作品自体よりも、その作品が提示する概念に主眼があります。作品は概念を提示するための手段に過ぎません。概念は単語やセンテンスで提示されることもあります。ある程度まとまった文章で示されることもありますが、文章の提示形態が作品に含まれず、テキストとして扱うことができ、本にできる形態の場合は文学として扱ったほうがよいでしょう。

SF的な性質を持つ概念芸術として、ウォルター・デ・マリア《Vertical Earth Kilometer》という作品があります。直訳すると「垂直地球キロメートル」です。

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Vertikaler_Erdkilometer.jpg

Photo by Kai Oesterreich, CC BY-SA 4.0

真鍮の棒の断面だけが地表に露出した作品です。これは「地下に埋まっている1キロの長さの棒の断面」だそうです(本当かどうか知りませんが)。そのことを、我々は「言葉で」知り、そのことに驚き、その大きさを想像します。「地下に埋まっている1キロの長さの棒の断面」という説明はこの作品にとって不可欠です。

この作品が提示する概念は、言葉によってある程度示せるともいえます。ただこの作品は、サイト・スペシフィック、つまりこの場に行かないと目にすることはできません。実物を見に行くまでの様々な体験をするでしょうかし、それが作品鑑賞体験とつながっています。実物を見て初めて感じることもあるでしょう。

文章で書かれたSFと比較すると、良くも悪くもこの作品の提出する概念は1つです。良くも悪くも「なぜこの棒が存在するか」「なにか機能を持つのか」といったことを、この作品の受け手が考えるか考えないか自由です。

文学作品は、概念を物語の形でより有機的に提示します。登場人物の行動やその変化により1つの概念が様々な広がりを見せます。文学作品ではテーマやメッセージの詳細があるために、解釈の方向性はある程度定まるかもしれませんが、それでも読者は様々な解釈が可能です。特にSFでは、実際に(まだ)存在しない事物を描くことによって「もしも」を想像させます。

繰り返しますが、これは現代アートとSFのどちらが優れているかという話ではありません。ただ「見えないものを提示し、想像力を掻き立てる」という点で、現代アートとSFに通じる点がある一方、どちらかでしかできないこともある、という話でした。

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