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「アート・テロリスト」―言語概念芸術としての小説

更新日:2020年9月17日

 八島游舷です。この度、『小説すばる』2020年10月号に拙作の短編小説「アート・テロリスト」が掲載されるにあたり、アート・ナビゲーター(美術検定1級)を取得した小説家として、こちらのブログに寄稿させていただきます。

 これまで宇宙僧が寺ロケットで飛び立つ天駆せよ法勝寺、自動運転車が0.5秒で人の生死を判断するFinal Anchors、生きる時間を作るために加速する人々を描く時は矢のようにといったSF作品を発表してきました。アートをテーマにした作品は、本作が初となります。


「アート・テロリスト」(『小説すばる』2020年10月号)


ネットに画像があふれ、ストリート・アートが競売にかけられる現代にアートはまだ成立するのか? 謎の男コウサキは、岡本太郎の壁画《明日の神話》を破壊することを誓い、警察の構造的弱点を突いて計画を進める。一方、警察はコウサキを高度知能犯と認定し、彼の計画を阻止しようとする。破壊行為は、芸術に対する冒涜か、すべての芸術に対する愛か、究極の芸術なのか。


 私は、高校の時に奨学金を頂いて、2年間、イギリスのウェールズにある高校に留学しました。その時に科目として選択して以来、アートについて考え続けてきました。その学校では国際バカロレアという教育課程が採用されており、アートも日本の芸術科目とはかなり違うものでした。生徒は、テーマを与えられることもありますが、基本的に自分の制作方法とメディアを自由に探究します。この頃には、自然の美とアートの美との関係について考え始めていました。


 高校では、最初は絵を画いたり陶芸をかじったりしていました。また、かもめやいるかの形態を書道の筆で表現することもしました。やがて、自分はアートを作るよりも、アートを鑑賞し、アートについて考え、それを文章に書きたいのだと気づきました。アートを概念的に捉えるようになったからかもしれません。もともと概念芸術として作られたものでないアート作品も、概念芸術的な見方で再解釈できることがあります。ここでの「概念芸術」は、1960年代に登場したアートの歴史的文脈の中での概念芸術よりも広い意味で捉えています。


 小説もまた、「言語概念芸術」として捉えることができます。中でも特にある種のSFは、言語概念芸術の性格が強いといえます。想像の中でこそ、小松左京のように日本を沈没させたり、また人類や宇宙を何度も滅亡させたりしうる力を描くことができます。逆に、ある種のモダン・アートは、突飛な想像をさせるという意味でSFと非常に近しいことも多々あります。時間、空間、未来をテーマとした作品では特にそうでしょう。ウォルター・デ・マリアの、直島・地中美術館にある球体のある空間は、映画「GANTZ」や「2001年宇宙の旅」のモノリスを思わせます。同じくデ・マリアの《Vertical Earth Kilometer 》は、地中に1キロ伸びた真鍮の棒の断面だけが地表に露出した作品です。地下に1キロの長さの棒が埋まっているという事実を、我々は「言葉で」知るわけです。またクリスト&ジャンヌ=クロードの建物を梱包する作品も、非日常を作り出す点ではSF的ともいえます。


 いわゆる概念芸術では、オノ・ヨーコの作品のように極端に短い言葉に凝縮することもあります。一方、「小説」という捉え方では、一定の長さの文章を、書籍という形態で読むことが一般的で、特に非言語的な概念芸術とは異なる点もあります。芸術をすべて言語概念芸術に還元できるわけではありません。たとえ要約ができる芸術作品であっても、モノとして実際に見ることでその概念を体感したほうがいい作品は多々あります。ただ、作品を言語によりかなりの精度で記述することは可能であり、どのような作品についても「語る」ことはできます。

 小説では、思考実験として特定のテーマを成り立たせる世界を詳しく書き込むことができます。また小説がミーム(自己増殖する概念)を生むこともあります。ミームを拡散できれば、概念芸術としてはある意味では効果的といえるでしょう。ミームにはTwitterでよく見かけるたわいのないものも多々あります。意味が込められたものばかりがあふれていて疲れてしまった我々は、そのようなミームに頬を緩ませることもあります。ただ、小説の作者としては、ミームがより多くの人にとって考えるためのきっかけになることも願うわけです。


 ヴァルター・ベンヤミンが『複製技術時代の芸術』を書いて80年、インターネットの発達で画像やデータの複製はかつてなく容易になりました。このような時代は、言語概念芸術にとってはある意味では楽園かもしれません。概念芸術では、アートの持つアウラ(「オリジナル」に存在する一回性)を積極的に否定する行為こそが芸術とみなすことも多々あります。


 私は、イギリスの高校卒業後、大学では少しアートから距離を置いていました。その後、シカゴの大学院でフランク・ロイド・ライトの建築と出会い、また江戸の美意識「粋」について考えるようになりました。ここでもアート作品よりは、見方のほうである美意識に関心が向いたわけです。


 その後、仕事を始めてからも美術館には行っていましたが、2010年に、美術検定を取るために古今東西のアートについて集中的に学び、美術検定1級を取得しました。その頃からネットでこつこつ集めてきた画像は、約2800枚になりました。

 

 美術検定1級を取るために勉強して良かったことは、アートを体系的かつ網羅的に学べたことです。広く浅くではありますが、美術史全体を捉えることで、芸術家や作品の関係、影響、対立、相克が分かり、作品を多角的に鑑賞できるようになりました。

 

 私は、アートを、新しい(広義の)美的価値をもたらす行為・作品と考えています。バンクシーは、既存の社会や都市という文脈に自作を「差し込む」というかたちで、古い価値を壊しています。彼は実際にオークションで自作を破壊してみせました。概念芸術は、アートをモノや形から解放することで、市場的価値からも解き放ちました。新しい価値は、古い価値から自由になることによっても生まれます。言い換えれば、古い価値を壊すということです。簡単な例は掃除です。まあ自分の作品はともかく、他人が心血を注いだ作品をぶっ壊すのは刑務所に行く覚悟がいるわけですが。


 このような「引き算」を短編小説で表したのが、本作「アート・テロリスト」です。

私は今でもアートに対する素朴な疑問を抱えています。

なぜ一部のアートが突出した金銭的価値を持つのか。

アーティストであることと経済的自立はどのように両立できるのか。

美術館賞にはどの程度の知識が必要なのか。

 本作はこれらの疑問にすべて答えるわけではありません。

ただ考えるきっかけにはなるはずです。



「アート・テロリスト」は9月17日発売の『小説すばる』2010年10月号(集英社発行)に掲載予定です。ぜひご高覧ください。



プロフィール/「天駆せよ法勝寺」で第9回創元SF短編賞受賞。「Final Anchors」で第5回日経「星新一賞」グランプリ受賞。文学とアートについて語り合う文芸カフェを主宰(毎月実施)。TOEIC 990点。アルクの英語学習コラムに寄稿。

ウェブサイト: https://YashimaYugen.com

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